論理的な議論を進めると、言葉を定義するとか、理由はファクトか、などのチェックを行うことが多くなります。しかしながら(数理)論理は命題(文章)の真偽を中心に演繹的に判断するため、数字や程度の情報がしばしば欠けます。
例えば明日雨が降りそうかな?という時に調べてみると気象庁の予測では90%の降水確率だったとします。この状況で「明日は雨が降りそうだから傘を持っていこう。」というように簡略されて判断されることが日常では発生しますが、この推論をもう少し見てみると以下のようになります。
(気象庁の情報):「明日の降水確率は90%」
(人間Aの判断):「明日は雨が降りそうだから、傘を持っていく」
*10%の降らない確率にかける人はもちろん少数ながらいてもよい。
ではもし気象庁の予報が以下の場合は同でしょうか?
(気象庁の情報):「明日の降水確率は50%」
(人間Aの判断):「明日は雨が降りそうだから、傘を持っていく」
(人間Bの判断):「明日は雨は降らなそうだから、傘は持っていかない」
*たぶん人によって解釈は分かれると想像されます
この場合
「降水確率が90%」=>「雨が降りそう」(人間A)
「降水確率が50%」=>「雨が降りそう」(人間A)/「雨が降らなそう」(人間B)
だいたい世の中こんな判断をしていることが多いのではないかと想像します。
簡単な例ですが、論理的な推論という点で重要なルールが含まれています。それは降水確率という「0-100%の数字の範囲」が「0と1(真と偽)」という2つの値のみに収斂されていることです。
降水確率:(0から100%)*値は(0から1の間の実数の数だけ)無限通りある(ニュースでは10%単位で区切る)
雨が降る/降らない(0か1)*2通りしか値を取らない(”二値論理”と言います)
この2つの情報を結びつけるのは以下のような関係です。
”降水確率関数f”の定義
降水確率(60以上-100%)=「雨が降る」(例えば”1"という値、”真”)
降水確率(60%未満)=「雨が降らない」(例えば”0"という値、”偽”)
ちなみに数学ではこういう書き方をします(参考まで)
def
<=>
f:{x|0≦x≦100}->{0,1}
f(x)=1(When 60≦x≦100)
f(x)=0(When x<60)
前後でずいぶん情報量が違うことは明らかです。
しかしなぜそうなるかを考えてみると、それは「命題」が真偽(0と1)の2つの情報しか持たないからで、その命題を使って我々は論理を組み立てているという構造的な事情があります。
前置きが大変長くなりましたが、ここで提起したい問題は「0と1」の2つの値しかもたない命題では降水確率などの多くの値を持つケースをうまく表現できないということです。「論理的」とか言いながらちっとも、現実の論理的な話ができないということが発生します。
「0と1」からなる(古典的な)命題では、それをもとに推論を行い物事の正しい、正しくないなど判断したり、この情報に基づいて新しい情報を導いたりすることには大変便利です。例えば「人間は必ず死ぬ」、「ソクラテスは人間である」という2つの情報から、「ソクラテスは死ぬ」が導けるというような具合です。
もしもこの命題を以下のようにしてみてはどうでしょう?
ところが「人間の70%は病気になる」を「人間は病気になる」と言い換えると「ソクラテスは病気になる」の結論になります。実際問題こういう議論は多いのではないでしょうか?論理的に推論する場合は命題を真または偽に決めないとやりにくいです。なのでいわば仮定の部分の「70%」のところを四捨五入するなどで近似(きんじ)するわけです。
このような情報の欠落を少なくして事実に近い推論や議論を進めるにはどうすればよいのでしょうか?
2つの方法があると思います。
一つ目は数字を「0または1」に近似しないでそのまま使うこと。
「ソクラテスは70%病気になる」というように数字のまま表現することですね。
もう一つは段階的な2つ以上の程度を表す表現を使うこと。
例えば
(1)「雨が確実に降りそう」(降水確率80%以上)
(2)「雨が多分降る」(降水確率50%以上80%未満)
(3)「雨は多分降らない」(降水確率20%以上50%未満)
(4)「雨は確実に降らない」(降水確率20%未満)
分岐を多くして程度を表す例です。ちなみに降水確率はすでに段階的に10%単位で近似されています。
降水確率={0%、10%、20%、、、80%、90%、100%} *57.3%などの細かく刻まれた数字は出てきません。
これは数学ではこのように2つ以上の分類をする分野があり「ファジー理論」(そこで使う論理のことを”ファジー論理”という)と言います。ファジーの世界では確率など多くの値を取る場合を「メンバシップ関数」というものを使って数字の大きさにより分けて考えます。
(詳細は例えばこちらへ)
こうすることで雨が「降る/降らない」という極端に単純化された分類から、雨が「確実に降る/多分降る/多分降らない/確実に降らない」のように少し中間を扱えるようになりました。
もう一つ違う例を考えてみましょう。
という推論を考えてみましょう。
「中国は大きい」
「アメリカも大きい」
両国とも大きいのは事実です。しかしどれくらい大きいのか?
アメリカの人口(3.3億)vs中国の人口(14.4億)
現在のGDPはアメリカが中国の約1.5倍くらいありますが、人口で見ると中国はアメリカの4倍以上あります。なので今後経済成長をつづけて中国人の生活水準がアメリカと同レベルになった時にはGDPはアメリカの4倍以上になることが計算上分かります。
そうなるとビジネスで稼ぎたいA国としては、アメリカと中国は同じ「大きな国」ではありません。この場合は経済的に合理的は判断をするのであれば中国とも仲よくしないといけないな、という推論は自然です。
(*意思決定するかどうかは別問題であくまで合理的な推論の話)
このように実際の数字を入れてみれば「アメリカも中国と”同様に”大国だ!」というのは情報としてはかなりミスリードするものになります。このように「大きい/大きくない」のような単純化した文章の情報だと実体を表すには不十分です。なのでもしも数字が分かるのであればその数字をそのまま用いるか、もしくは程度を表すファジー理論の「メンバシップ関数」のよいうに複数の表現で近似するかというのが選択肢となります。
(★最後にまとめ★)
以上の話から我々が気を付けることは以下のことに要約されます。
(1)我々は論理的に考えるときには「ある/なし」のような単純化して考える傾向がある
(2)単純化した論理では程度や数字の情報が欠落し実態が分からない
(3)情報を欠落しないようにするには数字をそのまま使うか、程度を場合分けして考える