前回の記事(「論理」学びなおす~その1)について、自分の予想に反してのアクセス数が思いのほか多かったので、その2を書く意欲が出ました(笑)。
今回はその2として、論理の基本である「帰納」と「演繹」について、なるべく分かりやすく例を使いながら解説しようと思います。
*前回のその1では論理学における「命題」についてその真偽の判定が推論でどのようにできるかを解説しました。
論理的/ロジカルであるとは、何かを推測したり真偽を判断する場合に、客観的で事実に沿って正しく行うことです。
今回お話するのは結論を導くプロセス、すなわち”推論”をする時の2つの異なる手法である「帰納」と「演繹」についてです。
前回「pならばqである」というタイプの命題について解説しましたが、その推論プロセスにも大きく2つの形があるというお話です。
「帰納」も「演繹」も共に日常ではあまり使わないのではないでしょうか。私もこれらの言葉は大学院を出るまで西洋哲学史と数学以外では見たことも使ったこともありませんでしたが、社会人になって初めて見て使ったのは入社した外資コンサル会社のロジカルシンキングの研修の時でした。(その後講師もやった)
本日これからするお話の基本はその部分を踏襲したもので特別に凄いものが加わってはいません。また論理や数学も高校で学ぶ範囲での話に限ります。
◆「帰納」と「演繹」
wikipediaを見ると以下のように書かれています。
帰納(きのう、英: Induction)とは、個別的・特殊的な事例から一般的・普遍的な規則・法則を見出そうとする論理的推論の方法のこと。演繹においては前提が真であれば結論も必然的に真であるが、帰納においては前提が真であるからといって結論が真であることは保証されない。
演繹(えんえき、英: deduction)は、一般的・普遍的な前提から、より個別的・特殊的な結論を得る論理的推論の方法である。
帰納に於ける前提と結論の導出関係が「蓋然的」に正しいとされるのみであるのに対し、演繹の導出関係は、その前提を認めるなら、「絶対的」「必然的」に正しい。したがって理論上は、前提が間違っていたり適切でない前提が用いられたりした場合には、誤った結論が導き出されることになる。近代では、演繹法とは記号論理学によって記述できる論法の事を指す。
*それぞれwikipediaより引用(2020/10/12)
うーーーん、難しいです。。。
なので、これから解説します!
(なので今回「帰納」の話題を取り上げたかった)
しかし物理や化学では帰納的な結論を認めます。いくつかの実験や観測の結果が予想値と合致した時には証明されたと考えることがあります。
「帰納」と「演繹」の解説にうつります。
◆「帰納」とは実験や調査の結果から結論を推測する行為です。
より現実に近い言い方をするなら実験をたくさん行った結果、共通点や共通するルールを見つける行為をさします。
例を挙げると
「男性は女性よりも背が高い」
という結論を導くためにはサンプル(調査)をたくさん持ってきて平均身長を比べればこれは正しいことが分かります。
帰納的な推論をするときに前提として必要なのは、対象となる事象なり事実です。それが一般に複数ある時にそれから結論を、”なんとなく”導きます。
実験がそうであるように対象となる事象の数が少ないとそこに存在する法則(ルール)を誤って結論付けることが多々あります。よく「Nイコール300あるから、、」という言葉を聞きますがこれは「サンプルが300個があるところから推測した」という意味で使います。
サンプリングが1個か2個しかない時に、それをもとに一般法則を見つけようとしても結構無理があります。
例えば、サイコロを1回振って「2」が出たら「サイコロを振った時に2が出る確率は100%」という結論にはしませんよね。我々は経験的にもっとたくさん振れば1/6になるのはご存じのとおりです。
しかしこのサイコロの例のような推論が世の中には非常に多いのです。
例えば小学校に行く子供を2人を朝見かけて、2人とも赤い服を着ていた。それから「今年は赤い服がはやっている」という結論を導いたとして合っているかはわかりません。ですが帰納的推論としては正しいのです。
このように帰納的に推論を進めるときには結論が必ずしも正しいとは限らないことを理解する必要があります。
実際のディスカッションでは以下のようになケースになります。
(あるアパレルメーカーで)
今年の基本戦略は「赤」を推していこうと思います。なぜならば、現在赤が流行している傾向があり、サンプルリ調査もそれを裏付けています。。。
ちなみに、この理由付けはもう少し正確な言い方をすべきです。
「現在赤が流行している傾向がある」は何を根拠に結論づけたのかを言っていません。仮に別の理由があるなら以下の言い方になります。
『今年の基本戦略は「赤」を推していこうと思います。なぜならば、「***によると」現在赤が流行している傾向があり、サンプル調査もそれを裏付けています。』
もしも「現在赤が流行している傾向があり」の理由が「サンプル調査もそれを裏付けている」が根拠であるなら。以下の言い方が適切です。
『今年の基本戦略は「赤」を推していこうと思います。なぜならば、サンプル調査によると現在赤が流行している傾向があるからです。』
帰納的推論では「何を根拠に」その結論を出したかはっきりしないと推論が正しいか判定できません。そこは具体的にサンプルや実験などを記述することで、推論の道筋を検証できることになります。
(★ここ大事★)
上記の例もそうですが帰納的な推論において大変良く見られるエラーは少ない事例や情報から一般化を拡げすぎることです。本当はそこまで一般的に成り立たないのに、たった少数の事例から全部がそうであるように判断するということを我々は非常に頻繁に行っています。
特に人間は生物として心理学的なバイアスというものを持っており、自分の気に入った(つまり生命を脅かすものを避ける本能に従った)結論を出したい傾向を持っていますが、それはこの帰納的推論で自分の望む結論にほんのわずかなサンプルを根拠に確信してしまうという傾向があります。
特に人間は生物として心理学的なバイアスというものを持っており、自分の気に入った(つまり生命を脅かすものを避ける本能に従った)結論を出したい傾向を持っていますが、それはこの帰納的推論で自分の望む結論にほんのわずかなサンプルを根拠に確信してしまうという傾向があります。
例えば直近で言えば「コロナは危ない!」と生物学的な危険から思っている時に「感染者増加!」というニュースが流れれば、それはやはり危ないと判断して納得するようなケースです。
実際は帰納的に推測するならサンプル数を増やして例えば「テスト数」に対する「陽性数」または「重篤率」、「死亡率」などを取って、他のインフルエンザや風邪のデータを較べないと客観的には言えないはずですが、なんか一瞬で結論を受け入れちゃってますね。
(注、コロナについては事実が分からないので論理の展開の例として挙げただけでコロナが危険でないと主張する意図はない)
◆「演繹」は前提となる条件を仮定したときに、一定のルールで結論が必ず導かれる推測の行為です。
例としては三段論法が有名です。
数学の証明は全て演繹を使います。演繹を使った推論による結論は100%正しくなります。(というより、100%正しくなるように定義から作っている)
前回の記事で「命題」の真偽を扱いましたが、そこでしたお話は実は全て演繹を用いて話をしています。
少しだけ前回の復習すると「命題」とは真偽が区別できる文です。
そのうちの「pならばqである」という形の命題を考えるとき、pという仮定が成り立つときにqが成り立つ時に、この命題は「真」であると言い、成り立たないならば「偽」であると定義しました。
別の言い方をすると「pならばqである」という真の命題がある時に、もしpが真ならば必ずqが成り立つことが保証されます。
ちょっと細かくなりますが上記のソクラテスの例をこの命題に当てはめると
p=人間
q=必ず死ぬ
「人間ならば死ぬ」(「pならばq」)は真である。
ソクラテスは人間であるからpに該当する。つまりpの条件を満たす。
よって「ソクラテスは死ぬ」は正しい(真である)。
(余談、なので混乱する場合は飛ばしてよい)
「人間ならば死ぬ」という命題は真である、と言ったが実はこれは帰納的推論の結論である。現在まで人間は(今生きている人を除いて)例外なく死んでいるのでこれまでのところはこの主張は正しい。しかし今後人類が不死の能力を得る可能性もないとは言えないので、これ主張が正しいかどうかは検証できないし、もちろん既存の科学ても演繹的には証明できない。(「全ての有機細胞は有限の寿命がある」などの事実があれば演繹的に導ける)
ここから少しややこしくなります。(気合い入れてください!と言っても高校の数学の教科書に書いてある範囲です。)
「pならばqである」
仮定のpと結論のqにはそれぞれ真偽があります。
このあたりが少しややこしいのですが、「命題」に真偽がありますが、pとqにも真偽があります。
「真」「偽」というと分かりにくいのでpとqでそれぞれ「成り立つ時(真)」と「成り立たない時(偽)」がある、と言うと分かりやすいですかね。
「pならばq」はpが成り立たない場合、つまりpが偽の時はどうなるのでしょうか?
言い換えると「人間ならば死ぬ」が正しい時に、もしもその場所に「犬」が来たらどうなるか?
正解はpが偽の時はqは考えない。なぜならpという条件が成り立たない時のことは何も言っていないから。
そして(ここ大事!)pが成り立たない時には「pならばqである」は真である!(偽ではないから、という説明が分かりやすいか)
このpやqそして命題(=pならばq)の真偽を一覧にしたものを「真偽表」という。
p q pならばq
------------------
1 0 0
1 1 1
0 0 0
0 1 0
*真=1、偽=0 で表している。
前回の記事で使った例をここで再度登場してもらいましょう。
(前回の記事はこちら)
(前回の記事はこちら)
「大人ならばこれは分かる。しかし彼は子供だから分からない。」
命題としては正しくない(=偽)ことを解説しました。(*真の命題の”裏”は必ずしも真でない例として)
記号を使って解説すると
「(誰かが)大人であれば、(その人は)これは分かる。」
「pならばqである」
p=大人である
q=これは分かる
子供は大人でない。したがってpが真にならない。ゆえにqは何も主張できない。そして命題としては矛盾がないので真である。
つまり、子供である場合について、ここでは述べられていないからどちらとも言えない。
どうでしょうか?
ここで彼は子供であって、大人でないから、これは分からないという推論は論理として誤っています。
ここで彼は子供であって、大人でないから、これは分からないという推論は論理として誤っています。
(★ここ大事★)
もう一つ演繹についての注意を述べておきます。
演繹の「pならばqである」タイプの命題はpが成り立つ時にqは成り立つとは主張していますが無条件にqが成り立つとは主張していません。ですからpとqはセットで考えるべきでありq単体の主張はできません。pが成り立たなくなればqは即座にどちらでもよい存在になったのは上記の例でたくさん見てきました。
最後に現実的にありそうなこんな話で締めくくろうと思います。
南極は常に氷点下だから氷が解けないので、湖の上に住める。
海の上に住める!よかった!
それからしばらくたって地球が温暖になってきた。そうして夏には気温がプラスになることもありそうだ。そしてある時本当にそうなり湖の上には住めなくなった。
「湖の上に住めるって言ったじゃないか!」
しかしこの議論にはいつのまにか前提である「南極は常に氷点下だから」という部分が抜けています。元々言った人の言葉は間違っていなかったが、話が伝わっている間に仮定の情報が消えてしまったということですね。
◆帰納と演繹まとめ
実際の生活の中では推論の時に、帰納と演繹の両方を使います。演繹は論理的には強力ですが出発点における仮定がないと推論は進みません。幾何学などの学問であればそれを厳密に定義し矛盾のないように体系を構築できますが、一般社会ではなかなかそうはいきません。そのため帰納的な結論を演繹における仮定として使うことが多々あります。(「人間ならば死ぬ」という例)
しかし帰納的な結論は時に後から変わる可能性もあります。その場合には演繹では仮定が偽であるケースでは有効となる推論ができませんので論理的には何も出てこないことになります。
(★これも大事★)
あと注意すべきことは推論の正しさと、結論の正しさは別物です。
仮に推論が正しかったとしても前提が違っていたら結論があっている保証はありません。同様に推論が誤っていたとしても結論だけはあっていることもありえます。論理を使った推論はあくまでプロセスとして判断し、仮定や結論も切り離してみるのではなく必ずセットで考えないと、後々の検証や修正の時に混乱し、なんか知らないところで結論だけが独り歩きするということは世の中ではよくあることですのでご注意ください。
最後の本日上げた論理的なものを考えるときの注意をまとめます。
1)推論は帰納か演繹か?
2)それぞれ何を前提として推論しているか?
3)帰納の場合、前提のデータなりサンプルが十分足りているか?
(=一般化を広げすぎていないか?)
4)演繹の場合、仮定の条件を本当に満たすか?
(満たしていない場合は何も言えない)
(満たしていない場合は何も言えない)
5)前提条件や仮定が抜けて結論が独り歩きしていないか?
6)推論の正しさと結論の正しさは全く別物